2007年7月16日月曜日

マーラー 交響曲第1番

時に激しく、時にゆったりしているマーラーの交響曲第1番を聴いていると、その表題通りまさに「巨人(タイタン)」という言葉がふさわしいなどと思うのだが、マーラー自身は別に表題を意識して作曲したわけではなく、聴衆がその音楽を覚えやすくなるように単に記号として名前をつけただけに過ぎないらしいと知り、いいかげんなマーラーといいかげんな自分のイメージに怒りを感じた。そうは言っても、後付け的な文字タイトルでもそれが作品のイメージを決定するということは多々あることだと思うのだが、マーラーは一度付けた表題を後に外してしまっているのだ。要するに、“巨人”というイメージを持たれたくなかったのだ。
当初マーラーが自分の音楽を覚えてもらおうと表題を付けた思惑は見事にはまり、今日まで「巨人」という表題は定着していている。マーラー自ら表題を外しているのに…。表題のイメージを待たずに第1番を聴いた方がむしろマーラーの意図するところといわれたとしても、もはやそれはできない相談だ。
「巨人」という表題はドイツの小説家ジャン・パウルの小説『巨人(Titan)』から取っているものらしい。1800年から1803年にかけて書かれた『巨人』は、主人公アルバーノが恋愛や多くの人生経験を重ねて、成長していく過程が描かれ、そこには当時ヴァイマール宮廷で活躍したゲーテに代表される文学者や天才主義に対する批判が込められている(参考:ウィキペディア)らしいが、音楽とその内容は決してリンクするものではないとマーラー自身が語っているという。
いずれにしても自分が持った“巨人”のイメージは、正確にいえば、全く的外れなものだった。体の大きな人、心が広い人、優れた人…それが僕がイメージしたマーラーの1番─。聴いているとそうイメージできるはずなのだが…多くの人はそう思ったからこそ、外されたはずの表題がいまだに定着しているのではなかろうか。

画像マーラー:交響曲第1番ニ長調
G.Mahler:Symphony No.1 in D-major

1884~1888

作曲されだしたころは交響詩だったということだけあって、一つ一つの楽章の展開はかなり自由で激しいものだ。
第一楽章で静かに美しい旋律ではじまり、それが華々しくなり第二楽章へとつながってゆく。しかし第三楽章では重くゆったりとしたメロディーとなり、ゆったりとしたものでありながらテンポが目まぐるしく変化する。そして突如として激しく始まる第四楽章は最も変化が大きく、始まりは戦慄的なメロディーでありながらも終わりは非常に感動的で堂々としたものだ。
まさにマーラーには鬼才という言葉がふさわしい。

久々に映画「マーラー」を見たくなった。

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