2012年8月29日水曜日

SENSOU HANTAI, TEO TORRIATTE

「コードギアス 反逆のルルーシュ」をまとめて見た。非常に面白くて、R2まで一気に見てしまったのだが、どうも不思議な後味の悪さがずっと残ったままだ。多くの命が奪われてしまうからなのか、“差別的に占領されている日本国”という設定のためなのか・・・。現実社会で日本を狙っているとしか思えないロシア、中国、韓国といった国々で自国が占領されていると仮想したアニメやドラマなど存在し得るのか、存在したとしてそれが公の場で多くの人に受け入れられているということがあるのだろうか─、そんな重々しい思いが下腹部のあたりに溜まったままだ。

第二次大戦後の日本は米国に占領されていたわけで、コールドギアスの構想も間違いなくそれにならっているはずだ。いまの日本は米国から与えられたものなのだろうか─、コードギアスを見た中2はそう思うに違いない、そんな悪夢が頭をめぐり続ける。

そういえば自分の10代はどうだったか思い出してみると、中2らしくというべきか、洋楽ばかり聴いていた。ふと、カルチャー・クラブの「戦争の歌」という曲があったなぁと思い出す。「SENSOU HANTAI, SENSOU HANTAI」というフレーズを鮮明に覚えていて、自分には明らかに憲法第9条よりも心に響いていた。

「平和憲法を誇りなさい」と学校の先生から言われるよりも、外国人が外国語で「平和憲法は素晴らしい」と言う方が説得力がある、少なくとも自分にとってそんな気持ちは常にある。

いまのこの平和な世の中は、米国が与えてくれたものなのか、あらためて思いをめぐらせてみると、自分の中では答えは“否”となる。戦死していった人達が─、戦争を生き抜いた人達が─、原爆を落とされ散っていった人達、いまだ戦っている人達、そういった日本で暮らしていた人達すべての力で勝ち取った平和だと徐々に思えるようになってきた。そういう考え方であれば、終戦の日に靖国神社に赴くのは至極当然のことだと思える、まぁ自分はそういう習慣はないのだが・・・。

正直、自分は学校教育を終えてからもしばらくは、なぜ靖国神社の参拝が国際問題になるのか全く理解できなかった。それは、そこに戦犯と呼ばれる人が埋葬されていることも、そもそも戦没者がそこに奉納されていることさえも知らなかったからなのだが、そもそもそんなこと誰も教えてくれなかった。それはお前の勉強不足と指摘されても仕方がないかもしれないが、勉強不足な者でも覚えるくらいにしつこく教えることのひとつのように思えるのだが、教えることを避けているようにしか思えない。

そんな愛国的なことを記しつつも、今年の自分の夏はあまりの仕事の忙しさに、久々に終戦の日というものをさらりと流した。なんか、韓国や中国といったところが騒がしかったようだが、煩わしい雑音としか思えなかったくらいだ。そんな雑音ひとつで大きな悲劇を生む可能性を漠然と心配してはいるのだが─。

どうして領土問題というのは、領有権だけに終始するのだろう。共有する発想や議論が全くなされないことが不思議というか、悲しい。まさにジョン・レノンのイマジンは絵空事のごとく、人々は線引きに必死だ。互いの主張を誰かに裁いてもらって済むことなのか、誰も裁いてくれなければどうなるのか、主張を話し合いで解決できると思っているのか、解決できないとどうなるのか、現状を突きつめていけば対立を拭い去ることは皆無だ。

みんな手を取りあって平和を創ろう!

なんと現実味がなく気恥ずかしいと思ってしまうことか。そして、そういう思いが悲しくてならない。自分が生きているうち幸せであればそれでいい、戦争は起こらないだろう、おめでたいものだ。そういう風に考えてしまうこともまた悲しい。

犠牲の積み重ねで現在があるという考え方は分からないでもないが、犠牲なくして真の平和を実現できないのか、とスザクとルルーシュの関係を見て思ったのでした。そう考えると、コードギアスが少年少女が見て平和というものを真剣に考えるきっかけになるかもしれない。それがアニメか─・・・