インプロヴィゼーション=即興演奏、その究極を追い求めたのがデレク・ベイリーだ。
ベイリーの音楽を聴くと衝撃を受けるだろう。もしくは全く理解できない─、これは音楽といっていいのかどうか─、何のためにこのような演奏を続けるのか─、ノイズ・雑音─…彼のCD1枚聴きとおすのはつらいかもしれない。
エレクトリック・ギターを用いて決してメロディーやフレーズを弾かない。これがベイリーの音楽。
フリー・インプロヴィゼーションというカテゴリーに分類される。
フリー、自由に…人は自由に演奏しろと言われたらどのように演奏するのか、楽器を弾けない人も含めて─。何かメロディーとか曲、形式をイメージしないと意外と弾けないもので、非形式的なものを出そうとするのはものすごく難しいことで、あらゆる経験と思考が求められるものだ。フリー、自由という概念すら何なのか分からなくなってくる。
即興演奏というのは全ての音楽に存在する。一見、即興とは無縁のように思えるクラシック音楽においても例外ではない。ハープシコード奏者:ライオネル・ソルター氏は「譜面とういうのは単に記憶を呼び覚ますものであり、たとえばバイオリン奏者はパートに装飾をつけることをあらかじめ期待されている。ヘンデルのソナタを演奏する場合、楽譜に忠実にやったらたぶんヘンデルにいやというほど笑われるでしょう。当時の作曲家たちは演奏家でもあって、譜面に全ての音符を書くということはせず、ここで何か特定なことをしようということで音符を書きとめていただけなのです。…中略…グループでの演奏で、バイオリン奏者や他の弦楽器奏者が、ハープシコード奏者に何かを創造するよう駆り立てたり、その逆、ハープシコード奏者が最初に何かを思いつき、それに他のメンバーがしたがったりするのです。」と語っている。(デレク・ベイリー著『インプロヴィゼーション~即興演奏の彼方へ~』より)
私たちはあまりに録音された演奏に慣れ過ぎていて気が付かないだけで、生の演奏を見えれば分かるように、即興演奏はどんな音楽にも多少なりとも常に存在している。そしてその即興的要素が創造へとつながって、新しい何かを生み出しているのではないだろうか。
「インプロヴィゼーションは議論や判断を必要としていない。演奏場面にいる音楽家としての存在に含まれている創造的意欲に合致し、また音楽家の全存在を音楽創造という行為に巻き込むものであるからこそ、インプロヴィゼーションは存在する。他のなにものもこれはできない。」(『インプロヴィゼーション~即興演奏の彼方へ~』より)
ベイリーの音楽、時にそれは創造を刺激してくれて、時にそれは何かを壊す。
2005年12月24日、デレク・ベイリー死去、享年75。
ベイリーによって何が生まれ何が壊されたのか─。ベイリー亡き後、新たな音楽が創造されるのか─。デレク・ベイリーの音楽をじっくり聴けばその答えは見えてくるかもしれない。
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