「ロラン・バルト美術論集―アルチンボルドからポップ・アートまで」という本を読んだ。現代思想家による評論集、正直、内容の半分も理解できず・・・
しかし、語られるアート作品に対しては、興味を大いにそそられ、中でも、エルテのアルファベットには、エクリチュールの一人歩きのようなもの、シニフィアンの戯れによるシニフィエの不在が瞬間的に生まれ、その後に確固たるシニフィエが生まれる、とかいう勝手なイメージをもってしまった。
【エクリチュール】 | 文字。筆跡。また、書くこと。書き方。文章以外の映画・演劇・音楽などの表現法、書法の意味にも用いる。 |
【シニフィアン】 | ソシュールの用語。言語記号の音声面。所記(しょき)とともに言語記号を構成する要素。能記(のうき)。 |
【シニフィエ】 | ソシュールの用語。能記(のうき)とともに言語記号を構成する要素。言語記号によって意味される内容。所記。 |
かっこいい。
個別の文字はかっこいいけど、並べるとどうも・・・
文字の並びを眺めていると、次第に固定したイメージ生まれてくる。これからエルテと聞けば、上記のようなアルファベットをイメージするであろう。本来ならば、エルテその人の姿形を思い浮かべきたいところだが、例えば、マネやセザンヌ、ミケランジェロやボッチチェリといったように、作者の名前を聞いてもその容姿よりも作品を思い浮かべてしまうことは多いわけで、それがある種アーティストの宿命と言えるのかもしれない。
エルテ
エルテのアルファベットを見ていると、思わずバンドロゴを連想してしまう。ロゴ一つでひとつのバンドをイメージしていたあの頃を思い出す。そして、いまだにそのイメージが自分の中に強く残っていることを思い知らされる。極論するとイメージで済むだろうということになるのだが、あのレッド・ツェッペリンやプリンスの試みがうまい具合にいかなかったことを考えると、記号には音がないとなかなか落ち着くものではないと思ってしまう。ありとあらゆるところに存在するピクトグラムにおいても、知らず知らずのうちに任意の音を当てはめているような気がする。
「IV」と呼ばれることが常ではあるけれど、この記号を見ると該当のアルバムあるいはレッド・ツェッペリンを瞬時に思い浮かべる。そう考えると思惑は違えど、強い印象づけには成功したと言えるのかも。
プリンスもまた然り。
この人たちにはロゴに力などは必要なかったかもしれい
そしてメタルバンドはそれが必然であるかのように─
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