テレビで映画「タンポポ」が放映されていた。故・伊丹十三氏の傑作であり、テレビで見かけることも別に珍しいことではないけれども、背後に流れる音楽がマーラーの交響曲第5番第5楽章だということに初めて気がついて、思わず身を入れてしまう。
ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」での第4楽章などは、曲調と映像が非常にマッチしていて、効果的なマーラーの最たるものだと思うのだが、「タンポポ」での第5楽章も悪くない。もっとも「タンポポ」でも第4楽章は多用されているのだが…官能的な場面では必ずといっていいほど第4楽章が流れ、本筋のラーメン修行の場面では第5楽章とうまく使い分けている。
「タンポポ」を初めて見たガキの頃は、エロいシーンと(自分が虫歯で苦しんでいたために)おっさんが歯を抜かれるシーンだけしか印象に残らなかった。それ以外のものが駄目とかというよりも、自分にとってそれらがあまりに強烈だったためだ。どちらも映画の本筋から外れたものであり、それらばかりに気を取られると当然ながら映画の良さも理解できない、かといってそれらを無視したのでは本当の「タンポポ」の良さが失われてしまうと思うのだが。
数度の「タンポポ」と年齢を重ねることで、その良さを徐々に理解し得るようになってきて、そしてまた、遅ればせながら「タンポポ」でのマーラーを見出して、さらに映画を租借する。非常に美味しい映画だ。
マーラーの第5番を初めて聴いたのも、「タンポポ」が話題になっていた頃だと記憶する。脈絡があったわけではなく、単なる偶然。レンタル店に耳慣れぬマーラーなるCDが目立つように置かれていたために、半ば興味本位で借りて聴いた。「タンポポ」があってのレンタル店の主張だったのかもしれない。そう考えると、世間的な脈絡というのがあってそれに自分は乗っかったといえるのかもしれない。
(メンデルスゾーンによる)結婚式の歌のような出だしで始まるマーラー5番の第1楽章、突如マイナーの響きへと突き落とされて不快な思いしか感じ得なかったものだが、いまではその展開に病みつきだ。
マーラーの愛弟子ブルーノ・ワルター、少し前にBruno Walter Conducts MahlerなるCDを目にしたものの、どうせ古い録音で自分が理解できるわけでもないということで購入を回避していたのだが、あまりの破格値とほぼステレオ録音だということで結局買ってしまった。でどうだったのかというと、想像以上に良い音でかなりの満足。これを基準にあらゆるマーラーを比較していけそうな気がする。
映画「ベニスに死す」を今一度見直している。トーマス・マンがマーラーの死によって小説家である主人公がグスタフという名を持つに至った小説、それをヴィスコンティが映画化、グスタフを音楽家に仕立て上げ、マーラーの交響曲とともにマーラーの姿を映画の中に強く反映させている。見事なテーマ、見事な映像、見事な音楽─。
続けてケン・ラッセルの映画「マーラー」を見直す。「ベニスに死す」のグスタフに扮した男が駅のベンチに座って、その周りをタージオ的な美少年がぐるぐる回って茶化している、そしてそれを汽車の窓から微笑みながら眺めるマーラー、音楽は当然5番のアダージェット、この上なく好きなシーン。
そういえばケン・ラッセルは2011年の暮れに逝ってしまったはず。彼の自由な発想をもやは新たには見ることはできない、残念。もっとも、映画「リストマニア」のようなあまりにも自由すぎるような作品になると、見る側は戸惑いを覚える。もっともその破天荒ぶりこそがいいのだという見方もあるのだが。
そういえば2011年はリスト生誕200周年だったはず、それにちなんだ演奏会もあったはずだが、すっかり忘れていた。
ギターで演奏した「愛の夢」、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010で聴いたブリジット・エンゲラーの「葬送」、これらがリストにおける個人的な思い入れ。
マーラーの第5番第1楽章も「葬送行進曲」といったはず。送り出す響きは非常に重要だということなのだろう。
映画「タンポポ」ではリストの「前奏曲」が劇的に使用されている。リストというとあまりにもピアノのイメージが強すぎて、シンフォニー的なものはほとんど気にしてこなかったけれども、「前奏曲」の感動的な響きは無視できない。ということで早速、リストの交響詩をじっくりと鑑賞する。
リスト、フランツ(1811-1886)/Les Preludes Mazeppa Tasso Orpheus Mephisto Waltz: Masur / Lgo
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