今年のフジロックにマーク・リボーが参加するという記事を目にした、しかも、“偽キューバ人”を引き連れて。まったく興味を持てなかったこのイベントに、少しだけ惹かれた、ほんの少しだけ。それで、苗場まで行くかどうかはまた別問題、しかも、フジロック後、マーク・リボーと偽キューバ人たちのツアーが設定しているという朗報とともに、自分の頭の中から灼熱の苗場は消えた。
それにしても、このユニットがアルバムを出したのは10年以上の前のことだが、何故に今頃になって来日するのか。所謂ガンバレニッポン的なことなのか、それとも怖いもの見たさ的なことなのかどうかは知らないが、何にせよ、よくぞ皆で来てくれたという思いだけ。
この小さな驚きは、思いのほか大きいものだったのか、某大手レコード店では、“当店限定”と銘打って上の2枚をSHMーCDとして再発、とりあえず、最初の1枚だけを買う。それにしても、なぜまた買わなければならないのかと思うものも、さて、何度目だろうか・・・。期待以上にギターの音が洗練されている印象、買う価値はあったのか─。そう思ってしまうのだから何度でも同じことを繰り返すのであろう。なにはともあれ、これで8月の生演奏への期待も高まった。
フジロックに出るとはいえ、マーク・リボーのCDを即手にするとなると、それなりに大きな販売店へと足を運ばなくてはならない。そして目的のものを発見するまでには、ちょっとした時間を費やすわけで、その合間合間に目にする・手にする・耳にするあらゆる魔物に引き込まれ、ついつい計画的にという言葉や思想を失ってしまい、最悪の場合、目標物を捉える前にこちらの懐が撃沈されてしまうという事態に貶められる。過去、どれだけ撃沈され、その後、フランスパンを噛み締めながらネスカフェで飢えを凌いだことか─。
今回はSHM-CDがこれ見よがしに陳列されていたために、それほど幻惑されずに目的に至ることができたのだが、それでもプラス2枚、付随してきてしまった。無念・・・
さて、この付随的に購入した2枚が今回の記録のメインとなるもの。
1つは、マーク・リボーのソロで、リリースされた中でもっとも最近のもの。彼の最新の録音が聴きたいという理由から選んだのではなく、そのタイトルとジャケットに思わず惹かれてしまった。
サイレントムービーから流れてくる音楽というものをイメージして、マーク・リボーが書き溜めていたものらしい。中には、実際に映画のために作曲されたもの(メキシコ出身の監督Natalia Almadaが制作したドキュメンタリー映画のための音楽)も含まれているというが、どれがそれに当たるのか知り得ない。
ジャケットは、チャップリンの「キッド」をイメージしたものらしいが、自分にはバスター・キートンのように見えて仕方がない。バスター・キートンの映画における音楽となると、ビル・フリゼールのMusic For The Films Of Buster Keatonを思い浮かべてしまうのだが、映像に忠実に音づけするビル・フリゼールの手法とは全く異なって、マーク・リボーの場合はあくまで古い映像に似つかわしいメロディーを追い求めた結果である。
ギター1本だけで奏でられ続けるこのアルバムは、実にもの悲しい、しかし、自由かつ決してある範囲を越えることのないその不思議なメロディーは、恐らく飽きることがないだろう。これはあくまで個人的な意見、もしかしたら苦痛に感じる人もいるのでは。
もう1つは、パット・メセニーの新作、しかもオールカバーで─、もしかしてあのハービーのニュースタンダードにあやかったものなのかと、かなり期待のもの。
ピカソギターの響きから始まるサウンド・オブ・サイレンスなど、超有名な楽曲ばかり、数種のギターを駆使してはいるものの、あくまでギターソロを貫き通した、これもまた静かな1枚。
一度聴いただけで何となくわかったのは、あくまでこれはカバーアルバムで、ニュースタンダードではないということ。あのメセニーの超絶技巧は敢えて潜めて、淡々とオリジナルのメロディーを尊重しているといった演奏。確かなメロディー、決して乱れることがないだろうという安心感。これはもう、間違いない響きで、まさに動かざること山の如し。それ故、まったくもってつまらないものに思えてくるのは自分だけか。メセニーが何故にこのようなレコーディングをリリースしたかったのか、まったく理解できなかった。これはまさにイージーリスニングと呼ばれる音楽に違いない。イージーリスニングというものを楽しむことができるリスナーにとって、これほど素晴らしいアルバムはないのではと思うのだが、そういった類の音楽になじめない自分にとって、これは一度きりのアルバムになるのかなという予感。
たまたま魅惑された2枚のアルバムが、好対照のギターアルバムであったことは幸運なことかもしれない。マーク・リボーを繰り返し聴いて、不快な音が気になり出したら、もう一度このメセニーのカバーアルバムを聴き返してみると、もしかしたら自分の気持ちも変わるかもしれない。
それよりも、マーク・リボーの如く、この只中において来日することこそが、多くの気持ちを変えるものだと思うのだが・・・