ほぼ半月ぶりに、川沿いそして海岸沿いをランニングした。半月前と変わらない見慣れた光景が広がり、心がようやく休まる思いがした。大津波を被った人たちがこの気持ちを取り戻すのは、いつのことだろう。
1983年、自分が初めて記憶することになる大地震、日本海中部地震が発生。津波で多くの犠牲者が出た。この地震以前、日本海には津波が押し寄せないということが、半ば常識的に語られていて、自分もそう言い聞かされて育った。しかし、想定外の大津波が押し寄せた。地震発生後、頻発する余震に恐怖して、眠れない夜が続いた。
1993年、奥尻島沖地震の津波は数十メートルの高さまで達し、山の木々がなぎ倒されていたその映像を信じられない思いで眺めていた。このような津波を想定することなどできるはずがない。
1995年、阪神・淡路大震災。報じられる映像すべてが信じられないもの。これ以上の悲劇的な災害は自分の生がある限り、もう二度と目にしないだろうと思ったのだが…。
2004年、新潟県中越地震での新幹線脱線。
2008年、岩手・宮城内陸地震での山崩壊。
信じられないことが何度も発生している。三陸沿岸に住む人たちは長い間津波に備えてきたはずだ。そこから遠く離れた所で暮らしていた自分ですら、あのリアス式海岸には大きな津波が押し寄せると、学校から親からあるいは見ず知らずの地域の大人からも教えられて育ったわけで、地元の人たちは大津波が必然のものとして生きていたはずなのだ。にもかかわらず、想定外のことが起こってしまった。もっとも、流されてしまった街の姿を見ると、あれを想像しておくことなど出来るはずない。
現在自分が住んでいる所から、東京湾まで4キロほどだろうか。今回の大震災では4、5キロ先の建物も津波で被害を受けている。同規模の津波が東京湾に押し寄せたら、家の周りは水で満たされてしまうことは必至だ。
あれこれいらぬことを考えながら走っていたものの、久々のランニングだったため、途中から疲労しきってしまい、とにかく走りきることだけしか考えられなくなった。とにかく前に進むこと、前に進むことを考えながら、必死に前に進むしかない。
原発のことは想像すらしていなかったことで、これからどうなるかさえも分からない。無事に終息したとしても、この国は決して原発から逃れることはできないだろうし、いま現在世界中で原発に対して不安視することがあっても、しばらくは原発が消え去ることなどありえない。あの史上最悪と言われるチェルノブイリ事故以降、原発が減るどころか、その数は著しく増えている。これをなくすというならば、劇的な技術革新もしくは電気の制限のいずれかを求められる。
ゆえに、自分は水道の水も飲むし、福島県・茨城県産のものも食べ続ける。個人的に食べ続けると宣言したところで、流通されていなければ食べようがないのではあるが…。無用の規制はかえって迷惑だ。
いま自分にできること。募金して、節電しながら、ニュースや報道をよく見て、一生懸命働いて、経済活動を落とさずに、走り続けていくことだけ。
裁判員を選出する制度があるのなら、東北地方へボランティアとして招集される制度もあるべきか─